SANDII’S SLICE OF LIFETIME

SANDII’S SLICE OF LIFETIME

気まぐれな伝記です。

アーティストとして長い期間、魂(ソウル)の赴くままに表現の世界を歩んできたサンディーの人生のスライスを毎回1枚お届けしようという、ちょっと変わった伝記です。
おっとりとしているが熱情の人、一見気まぐれで実はとても一途、サンディーにはそんなギャップがあるようです。歩んできた道も猫の目のように変化の連続だったサンディーの人生。それを本人の日々のインスピレーションをもとに辿っていきます。だから、生い立ちから始まる普通の伝記とは違います。テーマは毎回変わり、サンディーがそのときどき心を注いでいることや、昔の一枚の写真、作ってきた音楽、そんなところから湧き水のように溢れ出る思い出を語ります。

サンディーのおしゃべりをこたつで向かい合って聞かせてもらうような“のほほん気分”で、お茶でも淹れてリラックスしながら楽しんでくださいね。

トーキング・ヘッズとサンセッツ

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トーキング・ヘッズが一番輝いていたのは『リメイン・イン・ライト』を発表した80年から、映画になった『ストップ・メイキング・センス』ツアーの83〜84年くらいまでですけれど、サンセッツとはどう関わっていたんですか?
Sandii
最初のなれそめはいつだったかな…。たしか81年くらいに東京でリーダーのデヴィッド・バーンにお会いしました。私の家にも来てくれて、玄米、味噌汁、焼き魚などの家庭料理を楽しくおしゃべりしながら食べてくれたのを憶えています。
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81年だと2月に大盛況のジャパン・ツアーをやって最も盛り上がっていた時ですね。ヘッズは次の年にも来日していますがその時も?
Sandii
82年にも日本で会ったかは憶えていないけれど、同じくらいの時期にサンセッツはジャパン(イギリスのバンド)のサポートも含めたヨーロッパ・ツアーをしていて、イギリス公演の時にデヴィッド・バーンと彼らヘッズが所属するサイアー・レーベルの社長シーモア・スタインが揃って私たちを見に来てくれました。ライヴの後に盛り上がって、彼らと一緒に日本食レストランに行ったりしましたね。
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そうか。サンセッツの『イミグランツ』は海外ではそのサイアー・レーベルから出ていましたから、レーベル・メイトでもあったんですね。それでライヴで一緒だったというのは?
Sandii
ライヴだとオーストラリアとニュージーランドでは、彼らの『ストップ・メイキング・センス』ツアーのオープニング・アクトをやったのが私たちだったの。ベースのティナは赤ちゃん連れでね“生まれてから3年間は一緒に居た方がいいの”とか言ってた(笑)
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このころのヘッズのツアーはサポート・メンバーがいっぱいいましたけれど、『イミグランツ』に参加している人たちと重なってますね。
Sandii
そう。81〜82年だと、ツアー・メンバーだったドーレット・マクドナルドというコーラスの女の子とパーカッションのスティーヴ・スケールズとキーボード・ファンクの王様、バーニー・ウォーレルなんかのトーキング・ヘッズの黒人サポートたちと仲良くなってね※1、その中の2人がたまたまスタジオに来てくれてサンセッツの『イミグランツ』に参加してくれたんです。
80年10月発表の4枚目のアルバム。プロデューサーはブライン・イーノで、アフリカン・ビートとライヴで披露された白人・黒人混成チームの生み出す新しいグルーヴが大きな話題となった。
83~84年のライヴ・ツアーを記録した映画。監督は後の91年に『羊たちの沈黙』で一躍脚光をあびることになるジョナサン・デミである。アートな演出とロックのパワーが一体となったステージ構成が大きな話題となり、映画の上映会場はコンサートさながらにダンスする観客で溢れたという。サンセッツの『イミグランツ』に参加したスティーヴ・スケールズがパーカッションで登場している。
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『イミグランツ』に二人の参加クレジットがありますね。ヘッズの日本ツアーが82年4月で『イミグランツ』が同じ年の秋の発売だから、来日時にレコーディングしたんじゃないでしょうか。サンセッツと同じ頃に活躍したプラスチックスもヘッズやB-52’sと仲よかったですから、ライヴ現場やスタジオで多くの交流があったんですね。
Sandii
あの頃のミュージシャンってそんな感じだったわね。海外で活動していると特にすぐ仲良くなれた。私たちとやったヘッズもそうだけど、グレース・ジョーンズもバウワウワウ※2もブロンディですら真っ平らな世界に横並びで居るっていうか。ライヴで一緒になると楽屋で普通にすぐ横でメイクしていたり。
——
いやあ、ニュー・ウェイヴのファンにとっては夢のような光景ですよ、それ。
Sandii
そうやって同じ場所で友達になれるのがすごく楽しかった。どこかの楽屋で“この化粧台でデボラ・ハリーがメイクしたんだよ”って聞いてわーっ!って思ったりしたなぁ…懐かしい!
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そういうサンセッツもポッと日本から出て行ってイギリスを経由してオーストラリアで大人気バンドになったわけですものね。本格的メジャーになるまであと一歩だったんじゃないでしょうか。
Sandii
そこが難しいところよね。今の自分で充実しているから、あの時そこで変に成功して流行の中で消耗していっていたら、その後にハワイに回帰した現在の自分はいないわけだし。どっちがよかったのかな…
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その辺のお話はまたおいおい伺いたいですね。では『ヒート・スケール』の話に戻りましょうか。
Sandii
はい。そうしましょう。

『ヒート・スケール』ほぼ全曲解説(2)

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曲名の「El Puzzlo」っていうのはスペイン語ですか?
Sandii
はい。レコーディングしたイビサで書いた曲ですね。「cincuenta por cient(50%)」って言いたくて、それをリフにした。謎があって50%ダークっていうニュアンスで、曲調は細野さんも好きなB-52’s※3のイメージね。歌詞の一部は例のティモシー・リアリー博士(第3回参照)の友人エステバンと私たちの共通の友人が書いたんじゃなかったかな。
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B-52’sはキッチュとはこのこと、という感じのニュー・ウェイヴ・バンドでしたね。「ロック・ロブスター」とか好きでしたよ。今も活動していますね。では次は「Kingdom Without Corners」。穏やかで深い感じの曲調ですね。
Sandii
私が口ずさんだメロディーに、こんな感じあんな感じと話し合ってできたクリスらしいユニークな歌詞を載せてね。なかなか他の人には書けない世界でしょう?
——
歌詞の世界をかみしめるような深みのあるメロディーですよね。
Sandii
私に太鼓をくれた、ハムザ・ウルディーンっていうもう故人のウード奏者が居て、彼にインスパイアされてメロディーが浮かんだ。音楽でフレンドシップを歌って、国境のない国を目指したいという思いを込めた曲です。
——
それがタイトルや歌詞に反映されているんですね。
Sandii
こだわりのある曲なので、この後、もう一度『レムリアン・ハート』(2004)でやり直している。
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そしてアルバムのラストはインストの「Dhyana Pura」ですが、タイトルはバリの地名というか…。
Sandii
大昔の聖地だった場所の名前です。Dhyana=瞑想、Pura=祈りの場所っていう名前で、今は賑やかなところよ。特に夜は(笑)。この曲が出来ていくのを観察していて細野さんのマジックにびっくりした覚えがある。ずーっとこもってなんだかわからないノイズを作っていて、一見全然関係ない音を重ねていくんだけど、真ん中くらいからみるみる音楽になっていくのね。組み合わせが見えてくる。“ノイズから音楽へ”っていう生命の誕生みたいでホントすごかった。
——
「細野さんはひらめきに見えても実はとてもロジカルに音作りをしていた」みたいなことをアルファのエンジニアだった飯尾芳史さんが取材で語っておられましたけど、細野さんの内部では整合性を持ってやっていたんでしょうか。
Sandii
細野さんの頭の中の動きが外からはわからないのね。『イーティン・プレジャー』の時もだいたい“一人にして”って言って寺田(康彦)くんか誰か助手を一人つけて、延々とやっている。そのあと“あー、うまいもん食いてえ”とか言いながら部屋から出てきて(笑)、私が“(歌が?)入ってもいいですか?”って聞くと“うーん…歌のメロディはあるんだけど…じゃ、入れとくか”みたいな。
——
ははあ。そのつかみ所のないやりとりの感じが細野さんらしいというか、余人にはうかがい知れない天才領域に思えますねえ。
Sandii
私は(細野さんを)180%信頼している。そういう人に身を任せてプロデュースされるという立ち位置が好きだったんですね。
——
サンセッツになってからはどうだったんですか?
Sandii
そういう点ではアルファ時代は全部ありがたかったですよ。久保田さんは久保田さんで“見せて武器になるものは全て見せればいい”って言って、セクシーさも含めてトータル・アイコンになるのを目指して細野さんとともに導いてくれたところがあったと思います。
——
当時のサンセッツは海外でもレコードが出て活躍しているんだけど、日本ではそれほど一押しされてる感がない、という不思議な立ち位置でしたね。
Sandii
サンセッツは細野さん・幸宏くんのYENレーベルに所属しているようで実態はエトランゼというか。プロデューサーには育てていただいたけれど、レコード会社としては扱い方がわからなくて放っておかれた感じで(笑)。そのぶん久保田さんは戦士のように先頭に立って戦ったんだと思いますよ。でも自分たちメンバーもそれをやればよかった。そうすればそれぞれに育ったのにと思わなくもないですね。
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良くも悪くも放置されて自分たちのやり方を開発せざるを得なかったというか。
Sandii
細野さんのプロデュース方法は、自分の知る限りだけれど、ある部分は相手に丸投げ的なところがあって。でもそうされることによって“成長しなくちゃいかん”というギフトをもらうわけよね。で、自分たちで一生懸命やっていると、一番いいタイミング現れてまた背中を押してくれる。
——
なるほど、サンディーさん流に言うとコズミックなタイミングで。
Sandii
そうね。
——
そして、そんなサンセッツの音楽性ってなんだったんだろうか?と考えると、音楽的には土着的なものをベースにしながら時代に乗ったニュー・ウェイヴ・バンドでもあったわけですよね。
Sandii
うーん、誤解を招く言い方かもしれないけれど、世界中の音楽の楽しい部分だけ集めた感じかなあ。食べ物でいえば練りもの(練った後に加熱して固めた食品)みたいな。
——
ああ、なるほど。当時は異種音楽の組み合わせを楽しむ時代でしたしね。サンセッツはそれをまとめるリズムのスムースさとグルーヴの太さがありましたし。
Sandii
そういう、いろんな音楽を取り込むニュー・ウェイヴ・シーンで揉まれて自分たちの皮が剥かれていくのが楽しかった。もしかして、突き詰めちゃうと<なんちゃってワールド・ミュージック>だったかもしれないけれど(笑)
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でもそれ、ある意味では的確な言い方だと思いますよ。世界中の音楽のいいところをセンスよく集めたっていうことですから。たぶん、そのまとめ方がサンセッツのオリジナリティなんですよ。
Sandii
そう思いたいところです(笑)

サンセッツの海外活動の成果

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ライヴではレコードとは違う姿を見せていたそうですね。
Sandii
いちばん象徴的なのはね、サンセッツがロンドンのヴェニューっていうクラブでやったときは、“今までどこの山奥にいたんだ?”っていうヒッピーおじさんから当時最先端のテクノまで3世代くらいのファンが来たっていうこと。
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両方の世代を引きつける匂いがあったんですね。
Sandii
イギリスの音楽誌で“フューチャリスティック・トライバル・ミュージック”って書かれていたのを憶えてる。
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それが『ヒート・スケール』の音楽性の奥行きだったのでしょう。オールド・スクールをベースにして新しいサウンドや時代に合った加工がしてあるという。
Sandii
レコードで目立ってライヴでお客さんをつかんだ、ファンを作った。そういう自負はありますよ。
——
当時の日本のレビューにもありましたけど、レコードは作り込まれてちょっとタイト過ぎるところもあった。でもライヴは大違いだったと。
Sandii
そう考えると前身の“夕焼け楽団”の衣替えとしては大成功だったのかな。レコードを聴いて“面白いテクノだ。でもちょっと作りすぎかな”っていう人がライヴに来てみたら“ごきげんじゃない”と思えるフィジカルな演奏をしていたから。だから今振り返ると、体温があるグルーヴは大事。ピンナップ的な私を見に来る観衆もライヴで人力のグルーヴを感じて、レコードを聴き直してほかの魅力も再発見してくれる。
——
そう考えると、同じ80年前後に海外に打って出たYMOやプラスチックスとはまた違うアピール・スタイルだったんですね。
Sandii
プラスチックスは同じ日本のバンドでスタイルがぜんぜん違うから、あの頃に海外でよく比べられた。あとYMOは何と言ってもビッグ・アクトで、海外活動はサンセッツより短くてもジャイアントね。彼らは計画性とプロモーションで、私たちはフィジカルに音楽を届けようとした。そういう違いはあるけれど。
——
本当にユニークだったんですね、サンセッツは。当時海外で観てみたかったです。
Sandii
私も一度客席から観てみたかった(笑)
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(笑)。ライヴの映像でもあるといいのでしょうけれど…。
Sandii
(オーストラリアの)ナララ・ミュージック・フェスティヴァルっていうイヴェントの84年の映像がどこかにあるはずなんだけどな。向こうのTVで放映していたから。
——
なるほど、この頃はよくフェスに出られていたんですか?
Sandii
他には、ミッドナイト・オイル、トーキング・ヘッズ、プリテンダーズなんかも出ていたニュージーランドのスウィート・ウォーターズっていうイヴェントも大規模で、サンセッツも参加しました。
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こちらはネットで84年のフライヤーの画像を拾いました。バンド名が”Sandy & the Sunsets“って書かれていて…。
Sandii
ねー!Sandiiの綴りが違ってSunsetの後の“z”も抜けてる。
——
大雑把過ぎますよね(笑)。
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何であれ、その辺の映像が出てくるといいですね。当時のサンセッツが海外で実績を上げていたんだな、というのが今回のお話からよくわかります。
Sandii
ニュー・ウェイヴ・ムーヴメントの中で懸命に自分たちを出していったのでプレスに支持されたのと、あとはあの頃にデヴィッド・ボウイが宣伝に努めてくれたことも大きかったと思う。サンセッツを気に入ってくれてね、プレスにもよく名前を出してくれていた。
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東京のクラブで同席している写真がありましたね。
Sandii
あ、あの時はINXS(インエクセス)のマイケル・ハッチェンスも居てね…
——
ははあ、さらに話が広がりそうなのでそのことは次の機会にじっくり伺わせてください。それにしても、今回ライヴのお話を詳しく伺って、サンディーさんは全力でパフォーマンスしていたのが今日のお話から伝わってきました。
Sandii
当時は“自分を出し切るしかない”っていうのと“でも、やりすぎると迷惑?”みたいなところのはざまで迷うこともあったんですけれど、そういうことを考えすぎないで、心から素直になれた時には壁のない世界が現れる。そこに行ければ成功した人生かな。今はそんなふうに思うようになりました。
——
あー、万人のテーマですね、それは。
Sandii
そのためにはまず執着を手放す、しがみつき菌をなくす。私も前はいったん気になると夜眠れなくなるくらい考えちゃう方だったんだけど、手放してしまうと新しい細胞が生まれるって思うようになって。
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自分の行動の結果をやる前から考えすぎるのも執着ですものね。そして、今はフラの伝承をしつつ、ご自分の音楽もやるという二つの立場があるから、気持ちの切り替えだけでなく健康も大事ですよね。
Sandii
そういう意味では使命感があってね。どうしてもヘルス・コンシャスにならざるを得ない。
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まあ、人間やりたくないことは結局やらないし、やりたいことはなんとしてでもやるっていう気がします。
Sandii
うん。きっと使命感って言っても自分が選んでやりたいと思ってるんだろうね。そういう意味じゃ好きなことをやってるだけ(笑)。自分がやっていることに夢中に恋ができるという幸せを感じています。だからどんな仕事でもアーティスティックにやればとても楽しいものだと思う。
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サンディー哲学はためになるなあ。次回はその辺をもっとお聞かせください。
Sandii
はい。よろしければ三日三晩こんこんと教えを説きますよ(笑)
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楽しみです(笑)。
JAPANのベースプレイヤー故・ミック・カーンと。ツアー中のスコットランドにて。
  1. ドーレット・マクドナルド/スティーヴ・スケールズ/バーニー・ウォーレル
    ドーレット・マクドナルドは大変長いキャリアを持つバック・コーラス・シンガー。参加したセッションは多く、ヘッズ以外だとシック、ローリー・アンダーソンなど。またザ・ポリスやスティングなどのライヴにも参加。ザ・ポリスの『ポリス・ライヴ』(1985)でその歌声を聴くことができる。近年、2019年にヘッズの「I Zimbra」をカヴァーしたシングルも発表している(FSQ Feat.Dolette McDonald 名義)。
    スティーヴ・スケールズは80年頃から頭角を現したパーカッショニストで、86年くらいまでヘッズ関係のセッションやライヴの多くでプレイ。その後もブライアン・フェリー、ヨーコ・オノ、ティナ・ターナーといったトップ・アーティストとの仕事をしている。
    バーニー・ウォーレルはロック殿堂入りも果たした、知名度が高いファンク系キーボーディスト。Pファンク/ファンカデリックの創設メンバーでもあり、数多くの世界のアーティストたちとセッションをしている。ヘッズのツアーには81、82、83〜84年と3回参加している。2016年物故。
    3人ともアフリカ系アメリカ人である。ドーレットとスティーヴの二人はサンセッツの『イミグランツ』のほか、元プラスチックスの中西俊夫と佐藤チカのプロジェクト、メロンの『Do You Like Japan?』(1982)にも参加。この当時、アルファ所属のアーティストたちは海外勢との距離が近かった。
  2. グレース・ジョーンズ/バウワウワウ
    グレース・ジョーンズは独特の美を保つアンドロギュノス的な容貌のジャマイカ系アメリカ人の女性シンガー、モデル、俳優。十代からモデルとして活動し、70年代後半にディスコ・クイーン系シンガーとして3枚のアルバムを作った後、80年のアルバム『Warm Leatherette』からニュー・ウェイヴへと大胆に変身。スライ&ロビーをはじめとする鬼才揃いのナッソー・コンパス・スタジオのハウス・バンドと共に斬新なスタイルと高い完成度を持つアルバムを制作し、82年にトレヴァー・ホーンと組んだ、リズム・ミュージックへのアンセムのような「Slave To The Rhythm」で音楽性の頂点に達した。180cmほどの長身に見えるが、周りの証言と本人の言葉によれば実際は173cmくらいで、長身に見えるのは常に高いヒールを履くからとのこと。
    バウワウワウは、セックス・ピストルズをプロデュースしたマルコム・マクラーレンが作り上げたイギリスのロック・バンド。メンバーは、コインランドリーに居る所をマルコムが見初めてスカウトしたという当時13歳の少女・アナベラと元アダム・アンド・ジ・アンツのメンバーたち。“レコードなんか買わないでお気に入りの曲をラジオやレコードからカセットに録音しちゃえ”という歌詞でホーム・テーピングを推奨するマルコムお得意のスキャンダル路線の「C・30 C・60 C・90 Go!」で80年にデビュー。アフリカのブルンディ・ドラムを取り入れた賑やかなリズムとポップな曲調、アナベラのハイトーン・ヴォイスで人気を博し、「チワワは素敵な合言葉」(1981)などのヒットを放った。80年代初頭(82年)に来日している。
  3. B-52’s
    “ビー・フィフティー・トゥーズ”と読む。79年に「ロック・ロブスター」でデビューしたアメリカのニュー・ウェイヴ系バンドで、男女が交互にヴォーカルを取る掛け合いスタイルが特徴。男性ヴォーカルのフレッド・シュナイダーのクセのある声質と歌い方が非常に耳に残る。フィフティーズやシックスティーズのカルチャーをベースにロックンロールをサイケにしたような狙ったゴチャゴチャ感とキッチュな音楽スタイルで人気を博した。日本で言うと70年代初期のゴーゴー喫茶で歌うテクノ・バンドのような感じか。79年の初来日で前座を務めたプラスチックスを気に入りアイランド・レコードに紹介したことによりプラスチックスの世界デビューの手助けをした。なお女性メンバーの蜂の巣状の髪型と爆撃機の類似から名付けられたグループ名は夢のお告げで決められたとか。
イラスト:田丸浩史
田山三樹 (ライター/編集)

編著に『NICE AGE YMOとその時代 1978-1984』(シンコーミュージック・エンターテイメント)、編集担当コミック単行本に『マリアナ伝説』(ゆうきまさみ・田丸浩史/共作)『ディア・ダイアリー』(多田由美)など。サンディーが80年代中頃まで在籍したアルファ・レコードについての読み物『アルファの宴』を『レコード・コレクターズ』誌で連載していた。