SANDII’S SLICE OF LIFETIME

SANDII’S SLICE OF LIFETIME

気まぐれな伝記です。

アーティストとして長い期間、魂(ソウル)の赴くままに表現の世界を歩んできたサンディーの人生のスライスを毎回1枚お届けしようという、ちょっと変わった伝記です。
おっとりとしているが熱情の人、一見気まぐれで実はとても一途、サンディーにはそんなギャップがあるようです。歩んできた道も猫の目のように変化の連続だったサンディーの人生。それを本人の日々のインスピレーションをもとに辿っていきます。だから、生い立ちから始まる普通の伝記とは違います。テーマは毎回変わり、サンディーがそのときどき心を注いでいることや、昔の一枚の写真、作ってきた音楽、そんなところから湧き水のように溢れ出る思い出を語ります。

サンディーのおしゃべりをこたつで向かい合って聞かせてもらうような“のほほん気分”で、お茶でも淹れてリラックスしながら楽しんでくださいね。

サンディーの70年代Jロック・シーン語り

(前口上)思い出したら止まらない!前のめりに面白さがアップしていくサンディーの日本のロック・シーン語り70年代版。秘話がいっぱいでだいぶ長くなりそうなので、ここで前回までのあらすじをちょっと。

(あらすじ)
スカウトされてハワイと日本にまたがって音楽・芸能活動を続けてきたサンディーは、75年から日本に腰を落ち着けた。故・坂本九さんや各界のプロデューサーたちにユニークな素材として注目されたこともあってNHK AM ラジオ番組「若いこだま」のレギュラーDJを務めることになり、そこから思いもかけない世界への扉が次々に開き、怒涛の70年代をつらぬく活動が始まった!

…というわけで、前回は同じ時代に活躍したディーヴァのひとり、りりィとの思い出を語るところで終わりましたが、続き感を保ってその最後の部分を再収録して先を続けます。

Sandii
実はね、ラ・ママか屋根裏でサンディー&りりィの共演リサイタルを波田野さんが企画していてね。二人のスケジュール調整している間にりりィさん亡くなってしまわれて。
——
ご存命なら今の時代、まだまだ活躍の場が広がったことでしょう。
Sandii
私もそう思います。とても残念でした。そういうキツめのイメージの個性だと、カルメン・マキちゃんも独特だったわね。
——
われわれの世代だとカルメン・マキ&OZが大変人気でしたが、ほぼほぼ同期のサンディーさんとしては意識するところはありましたか?
Sandii
意識していたかはともかく、最初に彼女が出てきたときはミステリアスな雰囲気と出自で注意を引いたのは確かですよ。どこからこんなエキゾチックな美女が現れたんだろうという。彼女のイメージ、売りは「笑わない」。それが様になっていてすごくかっこよかった。
——
最初は「時には母のない子のように」(1969年)というセンチメンタルな曲で一躍有名になったと思ったら、しばらくして急にロック歌手になったんでびっくりしました。
Sandii
わたしにとってはどっちも「カッコよかったー!」っていう印象ですね。
——
マキ&OZになってからの「私は風」とか、山あり谷ありの起伏を作ってスケールの大きな長い曲をやるハード・ロック・バンドというのが当時とても新鮮で。
Sandii
曲が雄大で良かったし、何より彼女がパワフルに歌うようになったよね。

私は風/カルメン・マキ&OZ※2
——
デビューしたときの儚(はかな)げなイメージから一変という感じで。
Sandii
それは…もしかしたらだけれど、「時には母のない子のように」の時はアイドルが苦痛だったのかもしれないね。TVとかラジオに出て、普通のアイドルたちと並んで毎回同じ衣裳とイメージで同じヒット曲を何度も何度も歌わなきゃならないとか。
——
マキさんがロックに本格的に目覚めたきっかけについて、昔のインタビューで読んだ記憶があるんですが、アイドルだったころにレコード会社からステレオ・コンポと一緒にプレゼントされたジャニス・ジョプリンのアルバムを聴いたのがロックに進むきっかけだったとか。
Sandii
ジャニスか。それはそうかもね。私もマキちゃんがジャニスのカヴァーをステージでいっぱい歌っていたのを憶えてるし、多分だけど、彼女の中でそうやってシャウトして出さなきゃいけない何かがいっぱいあったんじゃないかなと思う。そう言えば、この2〜3年内にラ・ママでやったイベント…3年くらい前だったかな…で、私もお世話になった天才キーボードプレイヤーの清水一登さんがマキちゃんの伴奏をしていたから見ていたけど、昔と変わらないなーって。すごい声が出ていた。
——
私も2018年くらいにライヴを見てそう思いました。懐メロ歌手じゃなく現役感バリバリで。マキ&OZの後のソロ活動も含めて日本のロック史に名を刻んだヴォーカリストですね。

ロックのディープな奥底への旅

——
ところでその頃のサンディーさんはどんな暮らしをされていたんですか?
Sandii
暮らし…そうですねえ。南林間という神奈川県の奥の方に住んでいて。その前は麻布十番。その後に都立大学。進化の場を求めながら…転々とネ!
——
後の二つは港区、目黒区。南林間とはけっこう落差がありますね。
Sandii
そのころに久保田真琴さんが厚木に古民家を見つけて、バンド・メンバーと一緒に住んでいたからそこに合流するようになっていくんだけどね。まあ暮らしと言えば、芸能人というかアイドル的なスタンスから徐々にロックの世界に入っていって、本物の知性を持ったヒッピーのような人たちとの出会いがあって私の心もだんだんとそちらの哲学に傾いていくの。
——
その頃には芸能人的に活躍されながら、久保田さんや細野晴臣さんからの影響もあって、アメリカン・ロックの世界にのめり込んでいかれた時期ですよね。
Sandii
そうですね。前にもお話ししたけれど、実際に何度もニュー・オリンズまで行ってマルディグラ(現地で毎年行われる大規模なストリート・カーニバル)に参加したりして。

1970年代後半、マルディグラ祭りのニューオリンズにて
——
そういう新しい世界にはどのような心境で参加されるんでしょう?
Sandii
自然な心境で、としか言えませんねー。考えて決断するというよりは、自分を運んでくれる流れに心地よく乗っているようなものじゃないかな。あの頃はロックの世界に行くという風に呼ばれたんだと思う。ライフ・スタイルも、半年働いて半年遊ぶみたいな感じで自由にやっていました。
——
初めて知るアメリカン・ルーツのロックの世界にどっぷり浸っていたと。
Sandii
そうですね。(ニューオリンズの)マリア・マルダー※1の家に呼んでもらいお世話になって、彼女の振る舞いからアーティストの佇まいを会得するとか、思想とその実践みたいなことをやっていました。だからまあ、わたしの場合、遊ぶというのは音楽を体と頭を使って楽しく学ぶという意味だけれど。いわば、あの時のわたしにとってロックは旅するためのパスポートで、その道案内を久保田さんがしてくださったんです。

マリア・マルダーに影響されていたころのサンディー(1976)
サンディーが最初に参加した、1977年の久保田真琴と夕焼け楽団のアルバム・タイトルと同じ『DIXIE FEVER』の文字がプリントされたTシャツを着ている。サンディー自作のTシャツ。
——
久保田さんが先導者だったんですね。
Sandii
久保田さんは多方面の才能がある方で英語も堪能でした。たとえば面識のないミュージシャンのライヴに行って、本人とか関係者にジャーナリスト風に話しかけていって仲良くなって最後は相手の家まで行っちゃうなんていうのもお手のものでね。うまくインサイドに入り込むっていうか、人脈を広げるっていう。そういう頭の良さもすごかった。
——
それにしても、NHKとかのお茶の間のアイドルからずいぶんと違う場所に行かれたんですね。
Sandii
ちょっと変わり種ではあるけれど芸能アイドル路線に居たと思ったら、パッとロックへ!っていう感じだものね。当時は周囲の環境というか人間の出会いが働いてそっちのほうにどんどん動いて行ったんだけれど、今思うと与えられた教材のように仕事や体験を吸収していたわけで、すべてが自然と自分が求めていたものだったんだろうね。NHKのお昼番組もロックの世界も与えられた課題図書を次々に読破していたようなもので、体験する中で自分がどんどん変わっていったから。
——
そうやって「どういう表現者になろうか?」っていう目標を探っておられたのではないですか?
Sandii
たぶん。意識してということではないけれど、音楽に限らずいろいろな体験に「エイっ!」と飛び込んでいく中で自分の心が本当に動くものを見極めていったのかなって今になって思うんです。
——
フラ、芸能、ロックとさまざまな経験をして、アーティストとしての体幹が確立されたんでしょうか。
Sandii
体幹を確立(笑)。アスリートみたいだね、それ。まあ歌にせよダンスにせよ実際に体を通過させて芯から覚えていったという意味ではそうかもしれません。それで最終的には「歌があればなんでも」っていう自分のアーティストとしての真ん中にたどり着いた感じ。
——
サンディーさんは体験主義ですものね。「これは」と思うものに出会うと肉体も精神も突っ込んでいくというか。
Sandii
そうなのかなー。まあ、夢中になる才能はあると思いますよ(笑)。
——
激しく同意ということで(笑)。そうやって元手をかけてサンディーが完成した。
Sandii
考えてみれば、70年代中頃が自分のキャリアの折り返し地点だったのかな。

踊る『古事記』!

——
そこからは吸収した物をレコードなど具体的な作品として出していくという。そして現在はフラと歌という二つのジャンルで活動されているわけですが、現在新しく考えている表現テーマなどはあるのでしょうか?
Sandii
今はねえ、実は『古事記』※2の世界に惹かれているんですよね。
——
サンディーさんが日本の古事記を?
Sandii
そう。実はすごい閃いたことがあって…。あ、古事記の内容はご存知よね?
——
ええ、そりゃあもう…古事記ですよね?もう任せてください。イザナギノミコトとか天照大神とか…最古の神話というか、いろんな神様たちが日本を作ったぜ!みたいな大昔の物語ですよね?
Sandii
「作ったぜ!」って(笑)。勢いがあるわりになんか頼りないね。全部で3巻あるんだけど、最初くらいは知ってるでしょう?
——
そうですね…頭の部分はちょっとあやふやですな。
Sandii
じゃあ中ほどは?
——
そこが問題でして。
Sandii
最後の部分はどう?
——
さっぱり知りません。
Sandii
じゃあ全部じゃない(笑)。
——
なんとなくぼんやりと全体を知っているという。まあ、平均的な日本人はそんなところじゃないですかね。へへ(笑)。
Sandii
開き直ったな(笑)。
——
いやいや、それよりサンディー版『古事記』の話をしましょうよ。
Sandii
『古事記』からのインスピレーションで『新事記』っていうか、なにかコズミックなものをやってみたいと思ったの。
——
なにかコズミックなもの!サンディー・クオリティでまさに宇宙的に話が飛躍しますね(笑)。でも感じはわかりますよ。それは音楽で?もしくはダンスで?
Sandii
根本にあるのはUNIVERSAL WISDOM(宇宙的な叡智)というかね…。ええと、最初から説明すると、神話というのは世界各地どこも似ているところがありますよね?日本、ハワイ、タヒチ、ギリシャ、ネイティブアメリカン…。いろいろな地域にいろいろな神々が居るけれど、わたしはそこに共通して流れる一つのテーマをわかりやすく表現したいと思っているんです。
——
なるほど…。挙げられた多神教系の神話では特にですが、人間の原型のような神々が登場しますね。その共通項ということですか?
Sandii
そう。それでね、わたしが思うに、神が実際にいたかどうかということを考えるよりも、重要なのは人間が体験をして何かに開眼した時にその物事にネーミングしてパーソナライズしてストーリー化する行為。それが神話の始まりだと思うんです。そしてそれは普遍的な内容でないと長く後世には伝わらない。たとえばだけれど、日本だと織姫・彦星。ハワイだとアイア・ラ・オ・ペレ・イ・ハワイイ。古代から神が踊っている。それは何を表現しているのか?そう考えたら、すべての神話の共通点が見つかるんじゃないかというお告げが来たんです。それを一つの ものに気付きというフィルターを通して、フラや音楽を通じてまとめられないか?そう思いついたんです。
——
それはまた壮大なことを思いつかれたんですね。それが『古事記』の世界と重なるわけですか。
Sandii
そう。『古事記』的なものをアップデートして、いわば『新事記』にするというか、一つのテーマをわかりやすく、神話とは何か?という本質を表現したいということなんです。それを今後の自分のアートの一番大きなテーマにしたいと思ったら、あれもこれもってやらなきゃいけないことがいっぱい出来てきてね。
——
忙しいですね。
Sandii
そうなんだけれど、人間そういうテーマを持ってやりたいこととか目的があるほうが毎日の生活が張りのある吸収の時間になるからいいのよ。もうね、この間いま自分が抱えているもののことをじっくり考えて、これからは時間の管理人になるのはやめて、自分の夢の管理人になる。そう決めたの。
——
いいですねー。人間、夢とか目標を未来の希望にして生きていかないと老け込んですぐ死んじゃうって言いますしね。みんなそうありたいと思うんではないでしょうか。
Sandii
ホント、そうじゃないかしら。これだ!っていう実現したい夢があるっていいものよ。
——
なるほど。ではそういった新たなテーマが出てきたんですね。『古事記』だと天岩戸を開けるために活躍するダンシング女神みたいな神様がいますけれど、今のお話を伺ってサンディーさんぽい女神様だなと思いました。
Sandii
そう?参考にしておくね。あっ!その昔、お伊勢様の氏神様の猿田彦神社で、細野さんや鎌田(東二)さん(神導ソングライター)から言われてそのダンシング女神(アメノウズメノミコト)の役を演じた事あるある!
——
おお、やっぱり!という感じです。では次回はその辺りのお話から最近のことまで詳しく伺いたいと思います。
Sandii
思い出しておきます、記憶の地層を掘り起こして(笑)。

天岩戸神社東本宮のアメノウズメノミコト像

(以下、次回へ)

  1. マリア・マルダーアメリカのニューヨーク出身のフォーク系シンガー。ジャズ、カントリー、ゴスペルといったアメリカン・ルーツ・ミュージックを取り込んだ豊かでアコースティックなサウンドと、73年に大ヒットさせた「真夜中のオアシス」に代表されるようなスイートで力強い独特の跳ね上げるような歌い方で一躍人気歌手となる。ヒット歌手でありながら同業者にリスペクトされるいわゆる“ミュージシャンズ・ミュージシャン”の一人。
  2. 「1975年作品。マキ&OZの代表曲のひとつで、ハード・ロック、バラード、ゴスペル調と多様なスタイルを使い分けてドラマチックに場面転換をしながら駆け抜けていく10分を超える大作である。曲調が極端に変わる箇所が多いのだが、それがまったく破綻を見せずにすべて一本の線で繋がってテンションを上げていくフリーな構成は今聴いても斬新である。ライブではインプロヴィゼーションやソロ・パートを加えて演奏時間が20分近くになることもあった。
    写真は78年に発表されたシングル・ヴァージョンのジャケットで、半分ほどの長さに編集されているだけでなく新たな演奏も加えられた新録音に近い内容。沢田研二が主演した、原爆を作ろうとプルトニウムを盗んだ男が日本政府と対決する1979年の映画『太陽を盗んだ男』のワン・シーンでも「私は風」の一部が使用された。現在このヴァージョンは『太陽を…』のサントラで聴くことができる。」
イラスト:田丸浩史
田山三樹 (ライター/編集)

編著に『NICE AGE YMOとその時代 1978-1984』(シンコーミュージック・エンターテイメント)、編集担当コミック単行本に『ディア・ダイアリー』(多田由美)など。最新編集担当本は『よりぬきヒロシさん 気まずいの以外全部出し』(田丸浩史)。サンディーが80年代中頃まで在籍したアルファ・レコードについての読み物『アルファの宴』を『レコード・コレクターズ』誌で連載していた。